大学教授の仕事は昔はよかった。のんびりとした時代であって、地方の私大の教員であっても、ゆっくりと自分の研究に没頭することができた。

ところが、文部省が1991年に「大学設置基準の大綱化」を行なった。今までの大学制度のあり方では新しい時代の変化に対応できないとされて、規制が大幅に緩和されることになった。大学間の競争の緩和にも繋がった。

それ以降は、いろいろなことが生じてきた。その渦中にいた人間として、研究の自由な時間が減らされて、授業のコマ数が増えて、雑務が増えて、さらに学生の質の低下により、学生への教育が優先される体制への変化を目撃してきた。

雑務だが、本当は雑務という表現を使わない方がいいのかもしれない。むしろ、雑務の方が中心になって、雑務が本務になってしまった。

授業についてこれない学生に対して、課外授業や特別指導を行う。昔は落第生は、ただ落第するだけであった。ところが定員割れの大学では、落第生でもきちんと4年間在籍して授業料を払ってもらう必要が出てきた。ただ、実力の低いままで卒業して貰っては大学の評判にかかわる。それゆえに特訓をするのだ。

定員割れの大学が増えてきた。学生数の確保のために、高校訪問をする。AO入試で早めに学生を確保する。オープンキャンパスの数を増やして、高校生に大学を知ってもらう機会を増やす。高校への出張講義を行って、大学の名前を売り込む。入学試験の回数を増やす、そのために入試問題を作成するし、試験監督の回数も増える。

きめの細かい指導が要求される。ゼミ生に対して何度も面接をして、彼らの動向を掴んで置く必要がある。退学を希望する学生に対しては、在籍して頑張るように強く説得をするようになった。

さらには、細かくシラバスを書くようになったこと、学生アンケートで授業評価が大々的に行われるようになった。アンケートで悪口を書かれたら、その改善策を上層部に報告しなければならなくなった。

これらは昔は一切なかったのである。考えてみれば、大学教員は随分と暇だったのである。それゆえに、研究に没頭して、本を書いたり、論文を書いたりすることができた。

現在は不思議なことに、雑務が増えたのに、「研究もしっかり行え、科研費をとって来い、毎年論文を書いて研究していることをアピールしろ」と上層部は言ってくる。

とにかく、スーパーマンみたいな大学教員が求められるのだ。これは由々しきことである。我が国の学問研究がおかしなことになってきている。大学の教員を必要以上に忙しくしてはいけない。学問上の大きな飛躍は、たっぷりと時間をかけることで生まれてくるのだ。

現在、日本はノーベル賞受賞者の数が多いと称賛される。でも、それは大学が暇な時代の産物である。現在のように、大学の教員が窒息しそうなほど忙しくなれば、学問的な成果はほとんどでなくなるのではと懸念する。将来は受賞者の数は激減するのではと懸念する。