大学教授にも勝ち組と負け組がある。負け組だが、例えば、准教授のままで定年を迎える人だ。よっぽど学内で人望がなかったか、業績がゼロの人だろう。昔は、ワンマンの理事長や学長の判断で、業績がゼロでも教授昇格があったが、今では稀だろう。学校の情報公開が進んでいるので、あまりに変なことをすると文科省や学外から指摘を受けてしまう。

勝ち組は若くして大学教授になった人だ。早い人ならば40代の始めで教授になってしまう。30代で大学教授になるのは、やはり早すぎる。ほとんどいないだろう。指名されても、本人が辞退することが多いのではないか。

さて、これは学内における勝ち組と負け組の話だが、学者として見て、勝ち組と負け組みがある。勝ち組は、若くして業績が認められ、学界でも名前が売れて、コンスタントに講演の依頼が来る。執筆依頼が殺到して、テレビ出演も多い。例えば、明治大学の斎藤孝先生などが該当するであろう。

負け組みとは、論文数も少なくて、書くとしても、学内の紀要に掲載されるだけである。講演もするが、それは勤務校の社会人向けの講座で話すだけだ。知名度も極めて低い。

大学教授の勝ち組と負け組みを定義しようとすると、このように、いつ教授になったかとか、学問的な業績はどうかという視点からの定義がある。それらとも若干関係するが、ズバリ金銭の面からの定義もある。要はたくさん稼げば、勝ち組であり、稼ぎが少なければ負け組みである。

大都市の有名私大で働いていれば給料は良い。有名教授だろうが無名教授だろうが給料は同じである。それゆえに、有名私大で働いていれば、勝ち組になれるのだ。それに反して、地方の小さな私大で働いていれば、薄給で負け組みである。

国立大学で働く教授は給料の面で言えば、負け組みである。しかし、時間的な余裕は相当あるので、研究者としては勝ち組になれそうだ。国立大学の教授でも、有名私大に移る人は多い。それは、やはり給料面の魅力が理由である。私の知人だが、その人は中部圏の国立大から、関西の有名私大へと移った。その人の言葉だが、「給料に差があるとは聞いていましたが、こんなにも差があるとは思いませんでした!」と感激していた。

あとは、定年に関しての勝ち組と負け組がある。昔は東大や京大は60歳ぐらいで定年であった。しかし、今では65歳が定年になった。昔は、東大教授ということで、60歳定年でも次の働き場所を見つけるのは簡単だったのだが、時代が変わり、東大教授でも定年後の職を見つけるのは難しくなった。そんなことから、定年を65歳にあげて他の大学並みに揃えたのである。

定年後の状況も、勝ち組、負け組に関連する。定年後も自分の大学、あるいは、他の大学に移って、特任教授として職を続けられる人は勝ち組である。職が見つからない、定年後は年金しか収入の道がない人は負け組である。


これから大学教授を目指す人は、大学教授としても勝ち組でいたいことと思う。勝ち組といっても、分野によって勝ち組の内容は異なるのだから、まず、それを決めてから、頑張ればいいと思う。