論文の質は高い方がいい。しかし、発表の時には、それを分かりやすく述べるといいのかどうかという問題がある。この点に関して、自分の経験談を語ってみよう。

自分は博士論文を書いていた。そして、審査の発表会が近づいてきた。そこでは、文系は全員が同じ発表会で発表する。文学だろうが、経済学だろうが、法学だろうが、すべて同一の場での発表会なのだ。

専門外の人がたくさん出席するのであるから、自分は発表の内容をできるだけ分かりやすくする必要があると感じたのだ。

当日の発表会は、それぞれの人が専門の用語で語っていく発表会であった。つまり他分野の人への配慮はまったくしないのであった。互いに何を発表しているのか分からないので、会場からはほとんど質問が出ないような状態であった。

さて、私の番であった。私は、できるだけ、分かりやすく明確な発表であったと思って準備していた。そして分かりやすく発表したのである。

そして、20分ほどの発表が終了したのであるが、司会の先生が意外なことをおっしゃった。「~さんの発表はずいぶんと簡単なのですね」であった。そして、質問する人の中には、「こんな簡単なことならば、新しい見地などはあるのですか」などという質問もあった。私の発表の内容に関する質問はたくさん出た。

私の発表は分かりやすかったのであるが、それ故に、内容は簡単であると誤解されたようだ。一つ一つの論理の展開は精緻におこなったが、専門外の人のたくさんいる発表会で、それを細かく提示していくわけにはいかない。よって結論を中心に語ったのである。

論理の精緻な展開を知りたい人は論文自体に当たった欲しかった。審査の期間は、査読される論文は研究科の書棚に提示されているのである。そこで読んで欲しかった。しかし、自分の分厚い論文を読んだ審査員の先生方は少なかったのだろう。

結論的に言うと、博士号はもらえた。しかし、審査員の先生方の投票では僅差で合格となったのだ。なお、自分の博士号の論文はその後出版となり、そしてかなり売れたのである。そして、その分野でのある程度の地位は確立した研究書となった。

とにかく、発表の時には、あんまり分かりやすく書くとやさしい内容のない論文と思われるのである。そのために、ある程度は、はったりをかます必要がある。

これは自分の経験からだが、あんまり分かりやすい論文は単純すぎる論文と見なされる危険がある。研究者として大成して、一般向けに啓蒙書を書くと時になったら、分かりやすい文を書けばいい。しかし、研究者としての評価の定まっていない年齢の時は、ある程度のはったりが必要だ、と自分はそんな風に感じる。